DSpace Community: 2015論文
https://ah.lib.nccu.edu.tw/handle/140.119/80195
2015論文
2024-03-28T09:59:50Z
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原住民族史料建構與歷史還原—古地圖與圖像詮釋族群與太魯閣戰役
https://ah.lib.nccu.edu.tw/handle/140.119/80391
題名: 原住民族史料建構與歷史還原—古地圖與圖像詮釋族群與太魯閣戰役
摘要: 最早居住在台灣島上的原住民族是沒有使用文字的民族,有史料紀錄是在近4百年前才開始。藉由荷西、清領、日治等外來統治者繪製的地圖與歷史圖像,將可作為4百年來的原住民族歷史見證的重要史料。荷蘭統治台灣(1624-1662)期間,為探金而進入南及東部,依Van Keulen繪製台灣地圖中,記載太魯閣的立霧溪口Tarrabon發現金礦,及註記東部部落達67社之多。清領台灣(1684-1894)期間,在1713年派耶穌會士測量台灣地圖中首次出現limited(禁界)。其後清廷對漢番採隔離政策,動用國家力量繪製長卷軸「民番界地圖」達六幅之多。19世紀中葉簽訂「天津條約」台灣港口開放,涉外事件頻傳。1867年南台灣羅發事件,美國領事李仙得來台踏查,認定「土番地」為非清領地,又因八瑤灣船難而慫恿日本出兵台灣,因而爆發「牡丹社事件」。清廷重視邊防重要而台北建府。19世紀中葉清法安南事件波及台灣,於1884-1885年法軍直攻北台灣,清廷再建台灣為一省。劉銘傳為首任台灣巡撫,對原住民族政策則以「開山撫番」並普設撫墾局,1887年調查得巨幅「台灣內山番社地輿全圖」,首次呈現全台部落達806社。20世紀日治初期,以綏撫、圍堵、隘勇線推進的理番政策,未開戰前即相繪製有多幅原住民相關地圖。1914年爆發「太魯閣戰役」,日軍兵分5路從合歡山向東貫穿太魯閣,透過蕃地圖、戰爭圖與圖像,可再現太魯閣族的英勇奮戰與無奈,做為百年後歷史的省思。; 最も早くから台湾島に居住していた原住民族は文字を使用しない民族であり、史料として記録が残るようになるのは四百年前からのことでしかない。オランダ・スペイン、清朝、日本などの外来統治者が製作した地図や歴史的図像などは、四百年来の原住民族の歴史を証明する重要な史料とすることができる。オランダは台湾を統治した時期(1624-1662)に、金を見つけるため南部及び東部へ入っていった。Van Keulenが製作した台湾地図では、タロコの立霧渓のTarrabonで金鉱を発見したことが記載され、そして東部の部落が67に達することが注記されている。清朝統治期(1684-1884)の1713年にイエズス会の人物が測量した台湾地図において、初めてlimited(禁界)が現れる。その後清朝は漢民族と「番」に対し隔離政策を採り、国家の力を動員して長巻物「民番界地図」を六本も製作した。19世紀中葉に締結された「天津条約」によって台湾の港を開放することになり、外交的事件が頻発した。1867年に南台湾で起きたローバー号事件では、アメリカ領事ルジャンドルが台湾に赴き調査を行い、「土番地」は清の領地ではないと認定した。しかも宮古島島民遭難事件が日本による台湾への出兵を誘発したために、「牡丹社事件」が起きた。清朝は辺境防衛が重要であるとして台北府を設置することになる。19世紀中葉、清仏両国によるベトナムでの事件は台湾にも波及し、1884年から1885年にかけてフランス軍は北台湾へ侵攻した。そこで清朝は台湾を一省とした。劉銘伝は初代台湾巡撫であるが、原住民族政策については「開山撫番」によるものとすると共に、撫墾局を多数設置した。1887年に調査された巨大な「台湾内山番社地輿全図」には、全台湾の806社に及ぶ部落が初めて記載されている。20世紀の日本統治期初期は、綏撫、囲い込み、隘勇線の前進をもって「理蕃」政策とし、開戦前に原住民族関連の地図を多数製作した。1914年に起った「タロコ戦役」では、日本軍は5つに分かれて合歓山から東へ向かいタロコを通過した。「蕃」地図と戦争図と図像を通して、タロコ族の勇敢な奮戦ぶりと無力さを再現することができ、それは百年後において歴史を改めて考えるきっかけとなるだろう。
2016-01-05T05:38:06Z
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太魯閣族圖織的故事與傳說
https://ah.lib.nccu.edu.tw/handle/140.119/80390
題名: 太魯閣族圖織的故事與傳說
摘要: 在原住民族整個圖織意識的氾濫下,導正正確的觀念。台灣原住民太魯閣族本是無文字的民族,所以希望藉著圖織上的織紋來訴說那古老的傳說故事和生活的百景;也藉由織布的方式來䢖續文化的傳承,喚起族人對文化的認同及深知,將那沒落失傳的技藝保護及重現,使太魯閣族織物文化得以保存及傳承。在100~102年,木協會(秀林社區發展協會)獲勞動部(前勞委會)多元計劃「送給孩子的禮物:Truku圖織文化典藏計畫」乙案,與耆老、鄉公所及傳承技藝之地方相關人士等合作,使圖織文化重現及再造的百年面貌,也為地方文化及社區永續發展,奠下了永續傳承的基石。將Truku圖織智慧,發揮其實質的內涵,同時教育後世,延續先人數百年來所累積的智慧結晶,更以數位典藏方式紀錄(FB:送給孩子的禮物),使文化特有資產得以保存,更使社會大眾正確的了解太魯閣族織物圖紋的文化故事!; 原住民族全体の織物の図案に対する行き過ぎた考え方を正しいものへと改めていく。台湾原住民族のタロコ族は本来文字を持たない民族であり、そのため織物の図案によって古い伝説や物語、それに生活のさまざまを伝えようとした。織布という方法によって文化的伝承を継続し、タロコ族の人々の文化的アイデンティティを呼び起こす。そして深く知ってもらうことにより、衰え伝えられなくなってしまった技芸を保護、重視してもらい、タロコ族の織物文化を保存し伝承しようとするものである。2011年から2012年にかけ、「木協会」(秀林社区発展協会)は労働部(旧:労委会)の多元計画「送給孩子的禮物:Truku圖織文化典藏計畫」(子供たちに送るプレゼント:Truku織物文化所蔵計画)に選定された。お年寄りと「郷公所」及び技芸伝承の関係者と協力し、この百年の織物文化を再現し新しいものへと変化させ、地方の文化とコミュニティの永続的発展のために、永続的伝承の基礎を築いていくものである。Truku織物の知恵がその実際的な意味を発揮し、同時に後の世代を教育することで先人が数百年来積み上げてきた知恵の結晶を受け継ぎ、更にデジタル方式による記録(フェイスブック:子供たちに贈るプレゼント)によって、特有の文化資産の保存が可能となり、社会や一般の方々にタロコ族の織物における図案の物語を正確に理解してもらえるのである。
2016-01-05T05:38:03Z
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日本に潜在する台湾資料-内田勣コレクションを事例に
https://ah.lib.nccu.edu.tw/handle/140.119/80389
題名: 日本に潜在する台湾資料-内田勣コレクションを事例に
摘要: 本研究の目的は、国立民族学博物館(民博)において、現在整理を行っている「内田勣コレクション」の内容を紹介を行いながら、日本に潜在する台湾資料の掘り出しやその活用について考えることにある。「内田勣コレクション」は自然地理学者である内田勣(1906-1947)氏が撮影した写真、収集した民族資料や文書資料、フィールドノート、日記等で構成されている。これらの資料は、同氏の死後、家族によって保管されていたが、数人の大学関係者を介在し、現在、民博において整理が進められている。内田氏は、昭和15(1940)年から静岡師範大学(現静岡大学)の教員となる以前の数年間を台湾で過ごした。台南第一高等学校において教鞭をとるかたわら、台湾の各地を旅行し、手記や日記を書くとともに、台南を中心とした風景写真を撮影している。これらの写真には時期や撮影場所に関するメモが付されており、当時の様子が具体的にわかる貴重な資料であると判断できる。また、文書資料の中には霧社事件の記録の写しや、19世紀末の土地関係の公文書の類も含まれている。日本統治時代の台湾はさまざまな立場の日本人によって記録された可能性がある。鳥居龍蔵や伊能嘉矩から鹿野忠雄や瀬川孝吉といったよく知られている人々以外の資料が潜在的に日本に存在する可能性は低くない。内田は自然地理学を専門としていることもあり、他の民族学者人類学者とは異なる視点で、台湾における自己の周囲の日常を見つめていたとも考えられる。一方で、そうした記録を残した人たちが高齢化したり、鬼籍にはいったりすることによって、資料が見失われていく傾向が強まっている。原住民族の歴史も含めて、台湾史に新たな光が当てられている今日、こうした資料を埋没させないための努力や工夫が求められている。本発表では、そうした資料をアーカイブスさせていくことの意義を考えたい。; 本研究的目的,一方面要介紹在國立民族學博物館(民博)現在正進行整理的「内田勣藏品」的內容,一方面是將思考有關挖掘出潛藏在日本的台灣資料及其活用等問題。「内田勣藏品」是由自然地理學者内田勣氏(1906-1947)拍攝的照片、收集到的民族資料與文書資料等、田野筆記、日記等所構成。這些資料,在内田勣氏死後,雖然由其家人保管,但亦有幾位大學相關者居中其間,現在則在民博進行整理當中。內田氏從昭和15(1940)年在擔任靜岡師範大學(現靜岡大學)教員前的幾年,曾在台灣生活過。一邊在台南第一高等學校執教鞭,也一邊在台灣各地旅行,寫下手記與日記的同時,也拍攝了以台南為中心的風景照片。在這些照片上,都附著有關攝影時間與地點等備忘錄,我們能夠判斷這些是具體了解當時樣子的珍貴資料。又,在文件資料中,也包含了霧社事件的記錄抄本與19世紀末土地相關的公文書之類等資料。日本統治時代的台灣有著來自各式各樣立場的日本人記錄的可能性。像是來自鳥居龍蔵、伊能嘉矩到鹿野忠雄、瀬川孝吉等許多為人所知以外的資料,潛藏地存在於日本的可能性並不低。內田的專業是自然地理學,他也思考以不同於其他民族學者、人類學者的觀點,仔細觀察著身處台灣時自己周遭的日常生活。另一方面,留下這般記錄的人們有的已高齡化,有的已經死亡,因而資料愈漸丟失的傾向在增強中。原住民族的歷史也包括在內,台灣史正迎接嶄新光輝的今日,為了不讓這樣的資料被埋沒,我們正找尋著努力與解決的辦法。在本次發表中,我們想思考的是,建立這類資料的資料庫的意義。
2016-01-05T05:38:00Z
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馬淵東一與阿美族知識階層
https://ah.lib.nccu.edu.tw/handle/140.119/80388
題名: 馬淵東一與阿美族知識階層
摘要: 馬淵東一是戰前戰後重要的民族學學者,關於馬淵東一的研究已經有深厚的研究基礎,一般對於馬淵東一的研究成果印象,在於布農族與鄒族的研究成果上,而其實馬淵東一在阿美族方面也有相當的論著。池上高家是池上地區的知識階層,尤其是高光邦,其在池上公學校擔任教師,1939年馬淵東一因田野調查來到池上,透過高光邦引介田野對象,從此馬淵東一與高家結下不解之緣,其骨灰之部分葬在高家墓園。在筆者田野調查過程當中,發現池上高家藏有一批馬淵東一及高光邦之間的書信,以及論文手稿。本論文針對書信內容以及研究手稿進行初步的分類及研究,以做為之後更進一步研究的參考。並針對馬淵東一以及池上高家之來往情形做一番敘述,以見證兩家之間的世紀情誼。; 馬渕東一は戦前戦後の重要な民族学の学者であり、馬淵東一に関する研究はすでに多くの蓄積がある。一般的に馬淵東一の研究成果に対する印象はブヌン族とツォウ族の研究成果にあるが、実際には馬淵東一はアミ族についてもかなりの論著がある。池上の高家は池上地区の知識階級であるが、特に高光邦は池上公学校で教師を務めており、1939年に馬淵東一はフィールドワークのために池上を訪れ、高光邦を通してその対象を紹介された。これにより馬渕東一と高家は分かちがたい縁を結び、その遺骨の一部は高家の墓に葬られている。筆者はフィールドワークの過程で池上の高家に馬淵東一と高光邦の間の書信と論文の手稿が残されていることを発見した。本論文は書信の内容と研究手稿について初歩的な分類及び研究を行うことで、今後の更なる研究の参考とするものである。また馬淵東一及び池上高家の交流状況も合せて記述し、両家の間の友誼を証明する。
2016-01-05T05:37:58Z