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題名: 太魯閣事件與五年計劃
其他題名: タロコ事件と5カ年計画
作者: 李宜憲
貢獻者: 原住民族研究中心
關鍵詞: 理蕃;太魯閣事件;五年計劃;部落警政;授產
理蕃;タロコ事件;5カ年計画;部落警政;授産
日期: 30-十月-2015
上傳時間: 5-一月-2016
摘要: 日治時期的「理蕃」思潮,前期以隘勇線的圍堵為主,後期以理蕃道路的闢築為主。簡單地講,即「從圍堵到穿越」的過程。其間的轉變關鍵,就是太魯閣事件的落幕。日治時期的原住民行政,可分為三大段落:懷柔階段(1896-1902)、威壓階段(1903-1914)、撫育階段(1915-1945);這三階段的政策,在很大的程度上是與太魯閣事件相呼應的。所謂「太魯閣事件」,指的是日軍入駐花蓮以來,與太魯閣人的一連串衝突。包括新城事件、威里事件、以及1914年的太魯閣戰役。首先是懷柔階段的新城事件。事後,日軍退出新城地區,並相戒勿輕率施行軍事討伐、對原住民應採用慣習而不以普通法律、要盡力拉攏有影響力的原住民等等。接著是威壓階段的威里事件及太魯閣戰役。在前者的善後措施裡,提出另設花蓮港廳的構想、修築花蓮境內的隘勇線,隨後又增築到四條隘勇線,形成對太魯閣人的包圍態勢,最後在太魯閣戰役下,曾被日人視為形同敵國的太魯閣諸社,終於成為日治時期的理蕃區域之一。最後是撫育階段。它更是始於太魯閣事件的落幕,同時也是部落警政全面建立的起點。此後,以部落警政為中心,致力於原住民的生活輔導、物品交換、初等教育、公醫配置等等,尤其是「理蕃道路」的修築,使國家力量得以便捷地進入山區。伴隨著太魯閣事件的落幕,總督府也廢止了「蕃務本署」,且在警察本署中另設「理蕃課」,蕃政終於成為民政的一部分。日治之初,「理蕃」原只是地方官制下的業務,直到太魯閣事件結束之後的1915年,中央才正式把理蕃視為中央層級的一個分課。這又是太魯閣事件的另一個影響。
日本統治時代の「理蕃」の思潮について見ると、前期は隘勇線の設置による囲い込みを主とし、後期は理藩道路の建設を主とした。すなわち「囲い込みから通り抜け」の過程といえる。その変化の鍵となったのはタロコ事件の幕引きである。日本統治時代の原住民行政は懐柔期(1896−1902)、威圧期(1903−1914)、撫育期(1915−1945)と大きな3つの時期に分けられる。そして、これらの政策はそのほとんどがタロコ事件と呼応する。いわゆる「タロコ事件」とは、日本軍が花蓮に駐屯して以降、タロコ族と繰り広げた一連の衝突であり、新城事件、ウィリー(威里)事件と1914年のタロコ戦役を含む。懐柔期に起きたのは新城事件である。事件後に日本軍が新城地区から撤退。軽率な軍事討伐を戒め、原住民に対して法律ではなく、慣習を用いて影響力のある原住民を巻き込むなどした。ウィリー事件とタロコ戦役は威圧期に起きた。前者の事後処理では花蓮港庁設置の構想、花蓮地区の隘勇線の再設がなされ、その後、4つの隘勇線が増設され、タロコ族の包囲体制を強化した。そしてタロコ戦役が終結すると、これまで日本に敵対していたタロコ族の各社が日本の統治による理蕃区域の1つとなったのである。最後の撫育期は一連のタロコ事件の幕引きであり、警察による集落の全面管理の始まりである。警察を中心に生活指導や物品交換、初等教育、公的医療などを行った。特に「理蕃道路」の建設で、国家の権力が容易に山地に入り込めるようになった。タロコ事件の幕引きによって、台湾総督府は「蕃務本署」を廃止、警察本署の中に「理蕃課」を設置し、蕃政は民政の一部となった。日本統治期の初期、「理蕃」は地方管制下の業務であったが、タロコ事件終結後の1915年になって中央政府が理蕃業務を行う課を自ら設けたことも、タロコ事件の影響といえるだろう。
關聯: 第八 回台日原住民族硏究論壇
主辦單位: 政大原住民族研究中心主辦
舉辦日期:2015.10.30-11.1
資料類型: conference
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