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題名: 風雲恆春城 Part2 1899年(明治31年、光緒24年)恆春城包圍事件之社會狀況
其他題名: 風雲恒春城 Part2 1898年(明治31年、光緒24年)恒春城包囲事件の社会状況
作者: 紙村徹
貢獻者: 原住民族研究中心
關鍵詞: paliljaliljau首長國;Grid中心體系;非人格的支配;浮萍;千禧年主義運動
パリジャリジャオ首長国;Grid中心的な体系;非人格的支配;根無し草;千年王国運動
日期: 12-Oct-2014
上傳時間: 4-Jan-2016
摘要: 為壓制所謂牡丹社事件而出兵的日本軍隊撤回後, 1875年清朝建造了恆春城,開始了對恆春地方的直接統治。如此之政治狀態,一直持續至1896年,日本統治臺灣為止。在這將近20年的期間,被通稱為「恆春下蕃」的paliljaliljau首長國(酋邦)中,基於首長間的身分階層制度形成的具強大機能之社會關係架構幾乎解體,因恆春知縣而形成維持著固定首長之位階序列。1896年,因日本軍隊進駐恆春,日軍政府承襲了清朝的統治方式,更無視於首長間的位階序列性,對於首長層級更是籠統地一視同仁,使各首長們成為形式上的平等狀態。也就是paliljaliljau首長國,以社會集團之狀態幾乎完全瓦解了。可以視之為被解體了。各首長們各別接近日本軍政,也有因而順勢吸收了來自日方的好處,得到來自日本國敍勳的例子。但首長層級以下的一般平民們大部分都無法歸屬於應成為一體化之集團,反而是如浮萍般遊離彷徨在各領導之間。亦即是以日本統治者為焦點,全面展開了非人格之支配,也就是依其距離定位每個人的Grid中心體系。在此種社會狀況下,於1899年發生了恆春城包圍事件。包圍的主謀者不僅是藏匿在排灣族的漢族,同時也動員了眾多的排灣族。更甚者,頭目及應為其支配者之平民亦區分為敵我兩方,被軟禁在恆春城內的總頭目還擔任著平亂者之領導。這可視為是如「千禧年主義運動」般的社會運動。
いわゆる牡丹社事件の制圧のために出兵した日本軍の撤収後、1875年に清朝は恒春城を建設し、恒春地方の直接統治へと乗り出した。この政治状態は1896年の日本による台湾領有まで続いた。このほぼ20年の期間に、「恒春下蕃」と通称されてきたパリジャリジャオ首長国に帰属する首長同士の身分階層制に基づいたダイナミックな社会関係の枠組みはほぼ解体され、恒春知懸によって固定された首長同士の位階序列が維持されていた。1896年の日本軍の恒春進駐によって、日本軍政は清朝の統治方式を継承し、さらに首長同士の位階序列性を一切無視し、十把一絡げに首長層を取扱い、各首長たちを形式的平等状態に置いた。つまりパリジャリジャオ首長国は社会集団としてはほぼ完璧に瓦解・解体されたとみられる。各首長たちは個別的に日本軍政に接近し、うまくいけば日本から甘い汁を吸えたし、日本国から叙勲されたケースもあった。しかし首長層以下の一般平民層は多くが帰属し一体化すべき集団ももたずに、根無し草としてリーダーからリーダーへと彷徨っていく。すなわち日本統治者を焦点としてその距離のみによって人々が位置づけられるようなGrid中心的な体系の非人格的支配が全面展開することとなった。こうした社会状況のなかで、1899年の恒春城包囲事件が起こる。包囲側の首謀者はパイワン族に隠匿された漢族系のならず者で、しかも多くのパイワン族が動員された。さらに頭目とその配下であるはずの平民とが敵味方に分かれ、恒春城内に軟禁された総頭目まで反乱側のリーダーとして担がれる始末だった。これは一種の「千年王国運動」のごとき社会運動と見ることができる。
關聯: 第七回台日原住民族硏究論壇
主辦單位: 政大原住民族研究中心主辦
舉辦日期:2014.10.12
資料類型: conference
Appears in Collections:會議論文

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